大牟田 炭田
三池炭鉱万田坑
明治時代に入って、江戸時代の鎖国政策によって欧米に技術面で後れを取っていた日本は富国強兵、殖産興業などを掲げ、欧米に追い付こうとしました。
八幡製鉄所は1901年、日本で最初の製鉄所として操業を開始しました。日清戦争の賠償金の一部で建設し、戦争による鉄鋼需要の増大と、軍備増強のための鉄鋼需要にこたえるべく、操業を開始しました。
また、製鉄を行う上で、石炭は重要な原料です。石炭の産地、筑豊炭田が八幡製鉄所の近くにあったので、原料輸送にも有利なため、八幡製鉄所が北九州に建設されました。福岡県南部と熊本県北部にまたがって点在する多数の炭鉱は現在は閉鎖されてしまっています。これは、高度経済成長期のエネルギー革命によって、主要なエネルギー供給源が石炭から石油に代わったためです。今回は、八幡製鉄所に向けてかつて石炭を産出していた、数々の炭田跡のうち、三池炭鉱の万田坑に行ってきました。
万田坑の全体写真
また、坑内を見学できるように、ボランティアのガイドさんが解説をしてくれます。大体2時間に1回くらいの頻度でありました。
この炭鉱では、地下数百メートルほど地面を掘り、そこに人間が入って手作業で石炭を採掘しました。
資本家が炭鉱を建設し、そこで低賃金で労働者をあつめ、彼らを炭鉱労働者として、働かせました。
炭鉱労働者は、毎朝エレベーターで昼の弁当を持ち込み、地下に潜り、日が暮れたころにまたエレベーターで地上に戻る、という生活をしていました。坑内は暗く、ヘッドランプをつけて作業をしました。相手も見えないため、ヘッドランプの光の色で、相手の地位を判別していました。さらに坑内はとても狭く、1日中真っ暗な上、常に地熱で気温が50度近い環境という過酷な環境です。そのため、鉱山労働者の中には早死してしまう人も多かったようです。
炭鉱労働者や石炭を運ぶエレベーター 地下数百メートまで30秒ほどで降りたそうだ。なんとエレベーターの時速は50km/hほどだったそう。危険。。。
炭鉱労働者がつけた実際のヘルメットとランプ
昼の弁当の時間は疲れた労働者の唯一の落ち着くひと時でした。しかし、量が少ないので、勝手に他人の弁当まで食べてしまう人もいたようです。また、賃金は完全に個人の採掘量によって決まったので、常に労働者同士の取り合いや競争がありました。これらから察するに、労働者同士も常に肉体的に大変だった上、精神的にも大きなストレスを抱えていたことでしょう。
また、坑内で採掘した石炭を集積するための、輸送力として子馬が使われました。子馬でないと狭い坑内では動くことができないからです。いったん坑内に入れられた子馬は死ぬまで炭鉱の地中の中で暮らしたそうです。子馬たちは過酷な環境下での労働により3年も持たずに死んでいったようです。
これは実際に子馬や人が坑内で石炭を運ぶのに使っていた貨車。この貨車一杯に石炭を積み、貨車一台当たり○円、となっていた。
また、石炭の採掘により、周辺の地下水には有毒な物質が混じり日々、大量の有害な物質を含んだ地下水が土壌を汚染していきました。
このように日本が工業化するにあたり、多大な犠牲があったことも知ることができました。
こうして地上に産出された石炭は貨物車に乗せられ、現在は廃線されましたが、鉄路によって製鉄所へと輸送されたのでした。
廃線跡 枕木が残っている