大学 教育原理

大学と義務教育

 

 今回は大学の教育原理という科目で学んだことをお伝えします。

 

 今日のテーマは大学の起源と義務教育の起源です。

 大学での学問の起源は実は古代にまでさかのぼります。まずは古代を見ていきましょう。

 太古の昔から、世界中どこででも我々人類の祖先は狩猟・採集生活をしていました。そのため、定住することはなく、ある範囲で収穫できる植物や捕獲できる動物がいなくなれば、次々と新しい場所に移動していたのです。

 

 そのうち農耕や牧畜が伝来し、開始されると、人々は農耕や牧畜に適した土地に定住するようになります。住みやすい土地には人が集まってきます。やがて、交通の便が良かったり、食料がたくさん確保できる場所には人々が集まっていき、都市化が進んだのでした。古代都市が誕生しました。教育の起源はこのころ始まりました。

 

 ピタゴラスタレスアリストテレスなどは万物の根源は何か、という問いを立てて研究を始め、ここに、哲学が誕生しました。彼らは物理学にも優れていました。当時の学問はいまでいう哲学と物理学が融合したものでした。

 

 また、その後、人間のあり方に関して、つまり人間はどう生きていくべきなのかをアリストテレスが研究をしました。彼の研究はいまの倫理学です。

 

 さらにその後、プラトンアリストテレスは現在の政治学に相当する分野を研究しました。

 

 ピタゴラスからアリストテレスにいたるまで、古代の学者たちはみな、現世で起きていることを解明しようと研究をしていました。

 

 このころまでに、現在、大学で学ぶ学問の基礎が出来上がったといえます。

 

 次に、時代は中世へと入っていきます。

 

 中世は、キリスト教会の権威が非常に強かった時代といえます。キリスト教は簡単に言うと、来世天国に行くために、現世は善い行いをしお祈りをしましょう、という思想です。そのため、古代に比べて、現世の存在価値が下がったのです。このような時代の中、古代に開始された、現世を解明しようとしていた学問はいったん下火となりました。しかし、キリスト教の思想下ではあまり必要とされなかった古代の学問ですが、キリスト教系の学校で一部の学問は教えられたため、古代学問が完全に消えることはなく、生き残りました。

 

 

 やがて、14世紀からルネサンスが起こりました。ルネサンス(renaissance)の綴りからも分かるように、ルネサンスは「再生」と呼ばれました。何を「再生」するのか?

 

 そう、古代ギリシアやローマで生まれた思想が見直され、古代に研究されていた学問が再び注目を集めたのです。実際に、ルネサンス期には、古代ギリシア・ローマの美術や文化が尊重されたことからも、「再生」とは、古代ギリシア・ローマの思想をもう一度研究することを意味していたことが分かるでしょう。

 

 ルネサンスが盛んになった時には既にオックスフォード大学などの大学が創設されていました。

 これらの大学で、古代思想が学ばれたのです。中世末期から現代にいたるまで、途切れることなく古代ギリシア・ローマからの学問が現在の大学で研究され続けています。

 現在大学で研究している学問の源流は、古代ギリシア・ローマにあります。

 

 

 しかし、ここまの時代では、教育が一般人にはあまり必要はなかったのです。実際に中世(近世)には義務教育という制度がなく、簡単に言えば、今の大学もそうですが、学びたい人が自由に学んでいたのです。

 

 では、いつから教育が一般人にも必要とされるようになり、義務教育というものが発達したのでしょうか。

 

 このように教育が義務化されるのは、近代末期から現代にかけてのおおよそ200年位前だったのです。

 

 さて、時代は近代に入ります。近世は初期が絶対王政の時代、やがて国民国家へと移り変わります。

 

 絶対王政とは、一国の権力のすべてが一人の王に集中している状態です。権力を持った王だけが政治を行い、社会の体制を作っていきます。すなわち、王のみが教育を通して政治や文化などの知識を身につけていればよいのです。もし一般人が政治の知識を身につけ、王の政治に反発するようなら、厳しい弾圧が加えられます。しかし、王が教育を通して正しい知識を身につけ、よき心をもって人々のために政治をしてくれればよいのですが、現実にはなかなかうまくいきませんでした。どうしても権力のある者は傲慢になり、自分の利益のみに走る傾向が強くなります。近代の絶対王政時の王も、このように私腹を肥やすことのみを考えて、庶民から徹底的に富を搾り取ろうとする、悪い王もいました。

 

 このような状況下で、庶民の中には、王の政治に不満を持つ人がだんだんと時代とともに増えていったのです。彼らは王の専制政治に疑問を抱き、絶対王政を廃止しようと立ち上がります。ヨーロッパでは各地で革命がおこり、王を処刑することで、絶対王政をやめ、国民全員で政治をしていく社会を作ったのです。

 

 このように国民全員が政治や社会に参加する体系を国民国家と呼びます。国民国家においては、国民一人一人が政治や社会に参加します。そのため、絶対王政時には、王のみが政治などの知識を持っていればよかったのに対し、国民国家では社会に参加するために、その社会に属するすべての人がある一定水準以上の身の回りに関する知識を身に着けることが必要とされました。国民全員が力を合わせて社会を作ろうとをしようとしているのに、教育を受けていないために、無秩序な行動を起こされたら、社会は成り立たなくなってしまいます。

 

 ここに、すべての国民にある一定水準までの知識を身に着けてもらう方策として、義務教育という考え方が生まれたのです。

 

 近世末期になると、工業化や技術革新が進み、全世界で産業革命がおこりました。産業革命後、工業化の時代を迎えた世界各国では、自国の産業を発展させるため、大量の工場労働者を必要とするようになりました。工場労働者に求められた能力は、「決められた作業を決められたとおりに正確に行うこと」でした。そのため、労働者たちには、指示を正確に理解できる能力や、周囲の人間と協力して作業を行う協調性を身につけてもらう必要があったのです。このような能力を持った労働者を大量に輩出する方法として、学校制度を作り、すべての子供たちに等しく教育を受けさせることが最も効率が良かったのです。

 

 実際に日本が明治時代に殖産興業といって、欧米に追い付こうと急速に工業化を進めたと同時に、学制改革も実施され、江戸時代の寺子屋に比べて、より就学が義務付けられ、本格的な学校教育が開始されました。やがて時代が進むにつれ、社会の発展が進むにつれ、どんどんと教育が重要な位置を占めるようになっていきました。日本では明治時代に教育が義務化され、当初は4年間の義務教育でしたが、現在は小学校、中学校の9年間となりました。

 

 

  ここまで、大学や学問の歴史と、義務教育の歴史について話を進めてきました。日本では、明治時代以降、欧米に追い付こうと、義務教育制度をいち早く導入する同時に、義務教育で学ぶこととは異なり、学びたいことを自由に学ぶ場としての大学を、次々に建てていきました。そのため、日本では、義務教育(※)と大学で行われるような学問との境界がわかりづらくなっています。

 

(※)日本ではほぼすべての人が高校に進学し、高校の学習内容も中学までの学習内容の延長線上にあるので、ここでは義務教育に含みます。

 

 しかし、歴史的にさかのぼると、個人が興味を持ったことを自由に学び、研究する学問と、国家の発展のために制定された義務教育(その延長の高校教育も含む)での学習は全くの別物であることがわかります。

 

 このように、高校までと大学では学ぶ目的が全く違います。このようなことを心得て大学の授業を受けると、大学の授業はより意義の感じられるものとなるでしょう。